地球の恵み経済論

ネイチャー・ポジティブ経済への移行における生態系サービス会計の役割と課題:SEEA-EAとTNFDの接点

Tags: 生態系サービス会計, ネイチャー・ポジティブ, SEEA-EA, TNFD, 環境経済学

はじめに

近年、「ネイチャー・ポジティブ」という概念が国際社会において急速に注目を集めています。これは、生物多様性の損失を食い止め、2030年までに自然を回復軌道に乗せることを目指す、野心的な目標を伴うアプローチです。この目標達成のためには、自然資本および生態系サービスに対する経済活動の影響を正確に把握し、その価値を可視化することが不可欠となります。本稿では、ネイチャー・ポジティブ経済への移行期において生態系サービス会計が果たすべき役割に焦点を当て、その理論的枠組み、実務的課題、そして未来への提言について考察します。特に、国連の環境・経済会計システム(System of Environmental-Economic Accounting, SEEA)における生態系会計(Ecosystem Accounts, EA)と、自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures, TNFD)の動向を中心に、両者の接点と相乗効果の可能性を深掘りします。

ネイチャー・ポジティブの概念と国際的な動向

ネイチャー・ポジティブは、2022年に採択された「昆明・モントリオール生物多様性枠組み」において、その中心的な目標として位置付けられました。これは、単に生物多様性の損失を抑制するだけでなく、その回復を目指すという、従来の保全アプローチに比してより積極的なものです。この目標の達成には、企業や金融機関の活動が自然資本に与える影響を適切に評価し、意思決定に組み込むことが不可欠であるとの認識が共有されています。

こうした背景の中で、TNFDの活動は特筆に値します。TNFDは、気候変動関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)と同様に、企業や金融機関が自然関連のリスクと機会を特定し、開示するためのフレームワークを提供することを目的としています。2023年9月に最終提言が公表され、企業活動が自然に与える影響(インパクト)と、自然からの依存(依存関係)を評価し、財務情報に統合する枠組みが提示されました。これは、自然資本の劣化がもたらすビジネスリスクを可視化し、投資家の意思決定に影響を与える重要なステップと認識されています。

生態系サービス会計の理論的枠組みとSEEA-EA

生態系サービス会計は、自然が生み出す多様な恵み(生態系サービス)を、経済的観点から評価し、会計的に記録する試みです。国連統計委員会が採択したSEEA-EAは、この分野における国際的な標準フレームワークとして機能しています。SEEA-EAは、生態系を構成する土地、水、生物といった資産の状態変化を物理的指標(例:森林面積、湿地の炭素貯蔵量)と、そこから生み出されるサービスフロー(例:水質浄化、炭素吸収)の物理量および貨幣的価値の両面から記述することを目的としています。

SEEA-EAは、主に以下の3つのタイプの会計要素で構成されています。

  1. 生態系範囲会計 (Ecosystem Extent Accounts): 生態系の種類と面積の変化を記録します。これは生態系の物理的規模の変化を把握する基礎となります。
  2. 生態系状態会計 (Ecosystem Condition Accounts): 生態系の健全性や質を示す指標(例:生物多様性指数、土壌有機物量)の変化を記録します。
  3. 生態系サービスフロー会計 (Ecosystem Services Flow Accounts): 生態系から人間にもたらされるサービス(供給サービス、調整サービス、文化的サービス)の物理的量および貨幣的価値を記録します。

これらの会計要素は相互に関連しており、生態系の物理的変化がサービス供給能力にどのように影響するか、そしてそれが経済活動にどのような影響を与えるかを体系的に分析するための基盤を提供します。ネイチャー・ポジティブの目標達成には、単に生態系サービスフローの現状を把握するだけでなく、生態系の健全性自体を回復・向上させる観点から、生態系範囲と状態の変化を追跡し、その傾向を把握することが不可欠となります。

実務的課題と事例

生態系サービス会計の実装には、いくつかの重要な実務的課題が存在します。

1. データ取得と標準化の課題

生態系は複雑かつ多様であり、そのサービスは空間的・時間的に変動します。例えば、森林の炭素吸収能力は樹種、林齢、気候条件によって大きく異なります。また、水質浄化サービスは流域全体の生態系プロセスに依存します。こうした複雑な自然プロセスのデータを取得し、それを標準化された会計枠組みに組み込むことは容易ではありません。リモートセンシングデータ、GIS、市民科学データなどの活用が進められていますが、測定プロトコルの一貫性と解像度が課題となります。

2. 価値評価手法の選択と適用

生態系サービスの貨幣的価値評価は、市場が存在しないため困難を伴います。評価手法としては、仮想評価法(CVM)、ヘドニック法、費用代替法、移行費用法など多岐にわたりますが、それぞれに適用限界や仮定の制約があります。例えば、CVMは人々の支払意思額を直接尋ねるため、非利用価値の評価に適していますが、回答バイアスが問題となることがあります。一方、費用代替法は、生態系サービスが提供する機能が人為的な代替策によって置き換えられた場合の費用を評価しますが、その機能が完全に代替可能であるとは限りません。

3. 企業における取り組みとTNFDとの連携

企業レベルでの自然資本会計は、未だ発展途上にあります。しかし、TNFD提言の公表を背景に、多くの企業が自然関連リスクの評価に着手し始めています。例えば、食品・飲料メーカーはサプライチェーンにおける土地利用変化や水資源への影響を評価し、鉱業企業は採掘活動による生物多様性への影響を評価する事例が見られます。これらの取り組みでは、SEEA-EAの概念的枠組みを参考にしながら、自社の事業活動が依存・影響する生態系サービスの特定と、そのモニタリング指標の確立が進められています。TNFDが推奨するLEAPアプローチ(Locate, Evaluate, Assess, Prepare)は、生態系サービス会計の要素を企業の実務に落とし込むための有効なツールとなり得ます。

4. 政策における導入事例

各国政府は、SEEA-EAの枠組みに基づき、自然資本勘定の整備を進めています。例えば、英国は「自然資本会計(Natural Capital Accounts)」プロジェクトを通じて、森林、淡水、海洋といった主要な生態系の物理的・貨幣的価値を評価し、政策決定に資する情報を提供しています。欧州連合(EU)のGreen Dealにおいても、生物多様性戦略の実施状況を評価するための指標として、生態系サービスの状況把握が重視されており、SEEA-EAのような枠組みの活用が期待されています。これらの事例は、国家レベルでの生態系サービス会計が、環境政策の立案、監視、評価において重要な役割を果たす可能性を示唆しています。

政策的・研究的課題と未来への提言

ネイチャー・ポジティブ経済への移行を実質的なものとするためには、生態系サービス会計の更なる発展と普及が不可欠です。

1. 測定・評価手法の標準化と国際的な合意形成

生態系サービスの測定・評価手法の多様性は、国際比較や政策間の連携を困難にする要因です。SEEA-EAは国際的な基準を提供しますが、特定の生態系サービスや地域特性に応じた詳細なガイダンスの確立が求められます。IPBES(生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム)の知見なども活用し、科学的根拠に基づいた、より堅牢な評価手法の標準化を進めることが重要です。

2. 異なるスケールでのデータ統合と相互運用性

国家レベルの会計と企業レベルの開示、あるいは地域レベルの保全活動におけるデータは、それぞれ異なる粒度や形式で生成されます。これらのデータを統合し、相互運用性を確保するための技術的・制度的基盤の構築が必要です。ブロックチェーン技術を用いた透明性の高いデータ共有システムや、AIを活用したデータ分析プラットフォームなどが、この課題解決に貢献する可能性があります。

3. 政策決定プロセスへの会計情報の組み込み

生態系サービス会計で得られた情報が、具体的な政策決定や投資判断に実質的に影響を与えるためには、その情報の信頼性向上と、政策担当者やビジネスリーダーへの理解促進が不可欠です。政策提言の過程で、生態系サービスの価値喪失が経済に与えるリスクを明確に定量化し、予防的措置の経済的メリットを示すなど、より説得力のあるコミュニケーションが求められます。

4. ネイチャー・ポジティブ目標達成に向けたインセンティブ設計

会計情報を通じて可視化された生態系サービスの価値を、経済主体が自発的に保全・回復活動に取り組むインセンティブへと変換する政策設計が重要です。例えば、生態系サービス支払い制度(PES)の拡充、自然関連投資への優遇措置、環境税制改革などが考えられます。SEEA-EAやTNFDが提供する情報基盤は、これらのインセンティブが適切に機能しているかを評価する上での重要なツールとなります。

結論

ネイチャー・ポジティブ経済への移行は、人類が持続可能な社会を築く上で避けて通れない道です。この移行を効果的に推進するためには、自然資本および生態系サービスの価値を認識し、それを経済的意思決定に組み込むための生態系サービス会計が不可欠です。SEEA-EAは国家レベルでの標準的な枠組みを提供し、TNFDは企業・金融セクターにおける開示を推進することで、補完的な役割を果たしています。

残された課題は、データ取得の困難さ、価値評価の複雑性、そして異なるスケールでの情報の統合といった実務的側面のみならず、生態系サービス会計の情報を具体的な政策や投資判断に結びつけるための制度設計とインセンティブ形成にあります。学術界は、新たな評価手法の開発や、データ分析ツールの高度化を通じて、これらの課題解決に貢献し続ける必要があります。政策立案者、企業、そして市民社会が連携し、生態系サービス会計がもたらす知見を最大限に活用することで、真にネイチャー・ポジティブな未来への道筋が拓かれるでしょう。