自然資本の非市場的価値評価:政策決定支援のための最新経済分析手法と国際的応用事例
はじめに
地球規模での環境問題が深刻化する中、自然資本が人類にもたらす多岐にわたる恵み、すなわち生態系サービスの価値を認識し、その保全と持続可能な利用を政策決定プロセスに統合することの重要性が高まっています。特に、市場価格が直接的に存在しない「非市場的価値」の評価は、自然資本の真の貢献を可視化し、適切な政策介入を導く上で不可欠な要素です。本稿では、自然資本の非市場的価値評価における最新の経済分析手法、その政策決定支援における役割、そして国内外の具体的な応用事例について深く掘り下げ、今後の課題と未来への提言を行います。
1. 非市場的価値評価の主要手法とその進化
自然資本の非市場的価値を経済的に評価する手法は、近年著しい発展を遂げています。主要なアプローチには、表明選好法と顕示選好法が存在します。
1.1. 表明選好法(Stated Preference Methods)
表明選好法は、人々の環境財や生態系サービスに対する選好や支払い意思(Willingness To Pay, WTP)または受諾意思(Willingness To Accept, WTA)を直接尋ねることで価値を評価する手法です。
- コンジョイント分析(Conjoint Analysis)および選択実験法(Choice Experiment, CE): 特定の生態系サービスの属性(例:生物多様性の豊かさ、水質、レクリエーション機会)を変化させ、それに対する個人の選好を尋ねることで、各属性の限界価値を評価します。近年では、行動経済学的知見を取り入れ、応答バイアスの低減や異質性の分析が高度化されています。オンライン調査プラットフォームの普及により、大規模なデータ収集と複雑な実験設計が可能となっています。
- 仮想評価法(Contingent Valuation Method, CVM): 特定の環境変化が発生した場合に、人々がその変化に対していくら支払うか(WTP)またはいくら受け取るか(WTA)を直接尋ねることで価値を評価します。CVMは、存在価値や遺贈価値といった非利用価値の評価にも適用可能ですが、 hypothetical bias (仮想性バイアス)や embedding effect (埋め込み効果)などの課題も指摘されており、その克服に向けた研究が進められています。
1.2. 顕示選好法(Revealed Preference Methods)
顕示選好法は、人々が市場で示す行動から環境財や生態系サービスに対する選好を間接的に推計する手法です。
- ヘドニック価格法(Hedonic Pricing Method): 住宅価格や土地価格などの市場価格が、周辺の環境属性(例:公園への近さ、空気の質、景観)によってどのように影響されるかを分析することで、その環境属性の価値を評価します。GIS(地理情報システム)データと連携することで、空間的な異質性を考慮した詳細な分析が可能になっています。
- トラベルコスト法(Travel Cost Method, TCM): レクリエーション目的で自然地域を訪れる人々が支払う交通費や時間費用を分析し、その地域が提供するレクリエーションサービスの価値を評価します。近年では、ビッグデータ解析やGPSデータを用いた移動パターンの詳細分析により、より精緻な価値評価が試みられています。
2. 政策決定支援における非市場的価値評価の役割と課題
非市場的価値評価は、費用便益分析(Cost-Benefit Analysis, CBA)をはじめとする政策評価フレームワークに不可欠な情報を提供し、持続可能な開発目標(SDGs)達成に向けた政策形成に貢献します。
2.1. 政策評価・形成への貢献
- 費用便益分析(CBA)への統合: 環境規制の導入、自然保護区の設定、インフラ開発プロジェクトなどにおいて、環境便益(生態系サービスの価値)を貨幣換算し、経済的費用と比較することで、政策の正当性や効率性を評価します。
- 自然資本会計への組み込み: 国際的に進められている環境経済会計システム(System of Environmental-Economic Accounting, SEEA)の枠組み、特にSEEA-Ecosystem Accounts (SEEA-EA) においては、生態系サービスの物理量会計と貨幣量会計が議論されています。非市場的価値評価は、市場価格を持たない生態系サービスの貨幣量評価において重要な役割を担います。
- 経済的インセンティブ設計: 生態系サービスに対する支払い(Payment for Ecosystem Services, PES)制度の設計において、生態系サービスの供給者の行動変容を促す適切な支払い水準の決定に、非市場的価値評価の結果が活用されます。
- 生物多様性戦略・気候変動適応策への貢献: 国連生物多様性条約(CBD)の目標設定や、気候変動に対する生態系ベースの適応策(Ecosystem-based Adaptation, EbA)の費用対効果分析において、生態系サービスの価値評価は重要な根拠となります。
2.2. 国際的な政策動向との連携
国際的な政策動向としては、生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム(IPBES)が、生物多様性と生態系サービスの評価枠組みを提示し、その意思決定における価値の多様性を強調しています。また、自然関連財務情報開示タスクフォース(Taskforce on Nature-related Financial Disclosures, TNFD)の枠組みにおいても、企業や金融機関が自然資本への依存や影響を評価する際に、非市場的価値評価の知見が間接的に活用される可能性があります。
2.3. 課題
評価結果の不確実性、倫理的な側面からの批判、そして評価結果をいかに政策決定者に効果的に伝達するかという点が課題として挙げられます。特に、単一の貨幣価値に還元することの限界が指摘されており、多基準意思決定分析(Multi-Criteria Decision Analysis, MCDA)など、多様な価値観を統合するアプローチの重要性が増しています。
3. 国内外の応用事例とデータ活用の実際
非市場的価値評価は、多様なスケールと文脈で実践されています。
3.1. 国内事例
環境省による「自然資本評価プロジェクト」では、日本における主要な生態系サービス(例:水質浄化、土壌保全、レクリエーション)の非市場的価値を評価し、その成果を政策形成プロセスに反映させる試みが行われています。具体的には、国立公園におけるレクリエーション価値評価や、森林による土砂災害防止機能の評価などが実施されており、地方自治体においても地域資源の保全計画策定に活用されています。
3.2. 国際事例
- コスタリカのPES制度: 森林の保全や再植林を行う土地所有者に対して金銭的インセンティブを支払うPES制度は、生態系サービスに対する支払いメカニズムの先駆的事例です。これは、水質保全、生物多様性保全、景観保全といった複数の生態系サービスの価値評価に裏打ちされています。
- EUのMAES(Mapping and Assessment of Ecosystems and their Services): 欧州連合(EU)加盟国全体で生態系とそのサービスの地図化と評価を進めるMAESイニシアティブは、多様な生態系サービスの物理量および貨幣量評価を通じて、加盟国の生物多様性戦略や地域開発政策に情報を提供しています。
- 米国における国家レベルでの生態系サービス評価: 米国では、国家レベルでの生態系サービス評価(National Ecosystem Assessment)の構想が進められており、連邦政府機関が連携して、水資源、農業、都市部の緑地など、様々な生態系タイプにおけるサービスの価値を評価し、政策立案に貢献しています。
3.3. データとツールの活用
近年、非市場的価値評価の精度向上には、リモートセンシングデータ、地理情報システム(GIS)、生態系モデル(例:InVEST Model)の活用が不可欠となっています。これらのツールを用いることで、広域にわたる生態系サービスの供給量を定量化し、それを経済評価と統合することで、より現実的で詳細な価値評価が可能となります。特に、気候変動の影響下での生態系サービスの将来的な変化を予測し、その価値変化を評価するシナリオ分析において、これらのツールの役割は増大しています。
4. 未来への提言と残された課題
自然資本の非市場的価値評価は、その理論と応用の両面で進化を続けていますが、政策決定へのさらなる貢献にはいくつかの課題が残されています。
- 評価結果の政策関連性の向上: 複雑な評価結果を、政策決定者が理解しやすく、意思決定に直接活用できる形に変換し、伝達する能力の向上が求められます。政策ブリーフや分かりやすいレポート作成、意思決定プロセスへの評価専門家の関与深化が有効です。
- 不確実性への対応: 生態系の複雑性や将来の環境変化に伴う不確実性は、評価結果に影響を与えます。感度分析やシナリオ分析を積極的に導入し、結果の頑健性を示すことが重要です。
- 学際的アプローチの深化: 経済学者だけでなく、生態学者、社会学者、地理学者など多様な専門家との連携を強化し、自然科学的知見と社会科学的知見を統合した包括的な評価枠組みを構築することが不可欠です。
- 評価手法の標準化と国際協力: 国や地域によって異なる評価手法やデータの取り扱いを標準化することで、評価結果の比較可能性を高め、国際的な政策議論や協力体制を強化することが望まれます。
結論
自然資本の非市場的価値評価は、持続可能な社会の実現に向けた政策形成において、その重要性を増しています。表明選好法や顕示選好法の進化、GISや生態系モデルを用いたデータ活用の高度化は、より精緻で現実的な評価を可能にしています。国内外の事例は、この評価が費用便益分析、自然資本会計、そしてPESなどの具体的な政策手段の設計にどのように貢献しているかを示しています。
しかしながら、評価結果の政策関連性の向上、不確実性への対応、学際的アプローチの深化、そして評価手法の標準化といった課題への取り組みは依然として重要です。これらの課題を克服し、評価結果を効果的に政策プロセスに統合していくことで、私たちは自然資本の価値を真に認識し、ネイチャー・ポジティブ経済への移行を加速させることができるでしょう。自然資本の非市場的価値評価は、科学的知見に基づいた持続可能な未来を構築するための羅針盤となる可能性を秘めていると言えます。